貫徹クセ
今日は京都出張での研修でした。
学力を伸ばすというのは、ただ解法を知っていればよいというものではありません。
解法の向こうに何を意図しているかという理念が結果に影響を与えます。
人生の大半を塾に浸かって過ごしてきた僕ですが、まだそこを磨く余地を感じる研修となりました。
一問解けるようになるためには、一問研鑽すればよいとは限りません。
ちゃんと無意識レベルで使いこなせるようになるには、何度も練習しなくてはいけないのがほとんどのはずです。
能力の高い人、磨かれた人でも5回はやるでしょう。
凡人ならもっともっと練習します。
それはある意味では辛く単調かも知れません。
そんな時でも小さく目標設定しては達成を喜ぶ。
あるいは折に触れて自分を目標へ向けて燃やし続ける。
そんな、「自己調整型」の力が必要なのが現実です。
粘り強く取り組み続ける大人であれば、社会に出てなにがしかのものを得られます。
すぐに諦めて投げ出す性根ではいかんのです。
ある意味では諦めるという感情に浸かる前に、やり通す力と出会うのが理想なのだと思います。
諦念も貫徹も、クセのようなものです。
どちらのクセをつけるように子供と接しましょうか?
親がすぐに子供の意見に折れてよいでしょうか?
そんなわけがないですよね。