不正解は無意味を意味しない。
青木学院では、ただ間違えているというだけでは怒られません。
どんなに基本的な質問をしても怒られません。
しかし、間違っているものに〇をつけていれば怒られます。
間違っているものを誤魔化して書きなおして〇にしていれば怒られます。
分からないことがあるのにロクに質問しなければロクでもないことになります。
こういう怒られるようなことがどういう心根から起きるのでしょうか。
その一つは「不正解への過剰な拒否」があります。
学力が伸びにくい生徒は「不正解は悪いことである」という価値観を刷り込まれています。
これは学力が低いことそのものの数倍不幸な有様です。
だって誰でも間違うことぐらいはあるじゃありませんか。
いつだって私たちの人生は間違いだらけです。
間違いと失敗と不正解を重ね続けてようやく立っている、あるいはしがみついているのが今の現実のはずです。
その間違いや失敗や不正解を一つずつ克服したからこそ、なにがしかの力を手に入れて生きているはずです。
そんな大人が、子供たちにまず伝えるべきことは「間違えるまで、失敗するまで、不正解になるまでやって良し」ということのはずです。
不正解は無意味を意味しない。
『チ。』(魚豊)という漫画で元学者のフベルトが、若いラファルと対話をする場面があります。
自分の信じる学説を示すフベルトに、ラファルは尋ねます。
「信じて間違ったらどうするんですか?」
フベルトは即答します。
「構わない。不正解は無意味を意味しない。」
知に対して誠実にかつ勇気をもって向きあうこのフベルトの姿勢は、のちのラファルに大きな影響を与えます。
自分の知性で世界の美しさを捉えてそれに殉じ、自分に与えられたものの限界を悟りつつもまさに命を懸けて進んだフベルト。
その知のバトンをつなぐ様は、大きく心を震わせるものでした。
話を戻しましょう。
不正解は無意味を意味しない。
正にその通りです。
自分の道を進んだうえで間違えるのなら問題はありません。
間違えた先にそれを改善していく積み重ねを始められたら問題はありません。
だから塾長は、間違えた生徒に伝えます。
「間違い。でも普段より早く答えを出せてるから良し」
「間違い。でも面白い考えだから良し」
「間違い。じゃあなんでそうなったのか説明して」
間違えるほどの課題に向き合って、それを乗り越える学習をしたときに学力は伸びます。
だから、学力が伸びるように間違えましょう。