別解とは出汁のようなものである
今日も中学2年生と図形の話をしていました。
生徒が自分の答案についての評価を求めてきたのでコメントを返しつつ、別解を見せます。
別解を作らなくても、正解にいきつくことはできます。
例題の数字を書き換えるだけでワンパターンに解くことはできます。
しかしそれは深い学びには決してなりません。
肉を食べようと思えば塩があれば食べられます。
塩を振って炙って焼けば、美味しいです。
それでも人類の料理はそこに留まらずに深化してきました。
その結果、出汁をとって味に深みを持たせることに成功しました。
日本には魚介や椎茸の出汁があり、西洋にはフォンドボーがあります。
別解で考えるというのは出汁のようなものです。
学びに対する理解が浅いうちは、手間が面倒なだけです。
ありがたみが分からないでしょう。
それでもどんどん学んでいくについれて、別解の意味が理解できてきます。
別解で問題を豊かに味わえるようになります。
おこちゃまには分からないのですが、若い頃から親しんでおくべき教養なのです。